歴史はビジネス事例の宝庫!戦国武将に学ぶ、戦略とマーケティング

歴史はビジネス事例の宝庫!戦国武将に学ぶ、戦略とマーケティング

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戦国武将は生きるか、死ぬかの戦いを余儀なくされます。同時に、多くの兵の命を預かる。負ければ、親も子も妻も友人も、殺されるかもしれない。

現代は、そこまで切羽詰まっていません。失敗しても、お金を払えば済むことが多い。

命の交換をする戦国時代の、将である武将からは、本物の戦略を学べます。尊敬する武将は、黒田官兵衛、真田昌幸、徳川家康。この3人の武将の行動から、戦略を学んでみましょう。

目次

黒田官兵衛の戦略を見抜く力

織田信長が、天下統一を成そうと志した当時、多くの人は、何を奇想天外なことを……と思ったようです。

日本国という概念がなかったその当時の状況を考えると、なるほどそうかもしれません。いまでいえば、日本の総理大臣がアジア統一します!と宣言するようなものなのでしょうか。そんな状況で、いまの兵庫県、播磨の国の有力大名に使える家臣の一人にすぎなかった黒田官兵衛は、いずれ織田信長はほんとうに天下を取ることを見抜きます。

なぜ、見抜けたのか?それは、この乱世がどうなるのか、情報を集め、どうすれば黒田が生き残れるか、常に考えていたからではないかと思います。つまり、戦略とマーケティングを理解していた。そういうことではないかと思うのです。

織田信長が明智光秀に打たれたとき、黒田官兵衛は豊臣秀吉にいったそうです。殿が天下を取る時がやってきましたね、と。あらかじめ、シミュレーションしていなければ、いきなりそんなことはいえない。黒田官兵衛の頭の中では、数あるシナリオの内のひとつであったのでしょう。

小が大に勝つ奇策

織田信長が今川義元を破った有名な戦い「桶狭間の合戦」では、わずか4000の兵で、30000の敵を打ち破りました。また、1000の兵力で、5000の迫りくる毛利を追い払った、若き日の黒田官兵衛。

2000の兵力で、7000の徳川軍を追い払った、真田昌幸。

兵力は3倍以上、圧倒的有利と思われた戦で、小が大に勝った例は、いくつも見ることが出来ます。勝因は、いちがいに言えませんが、共通してるのは、情報力と知力。

織田信長は桶狭間で今川軍が勝利に酔って酒を飲み、油断しているところを攻めた。黒田官兵衛は、奇襲攻撃で不意をつき、戦には出れない老いた農民を借り出して鬨(とき)の声を上げさせ、援軍が来たと思わせた。真田昌幸は3倍の兵力の敵を分断させ、数的優位を無に帰した。

いずれも、敵方を知る正確な情報を得て、「まさか」と思うような策で、敵の不意をつき、油断させ、平常の判断を出来ない状況に追い込みました。

私は、小が大に勝つ戦にとても惹かれます。どうやって、勝てたのか?

敵の情報を敵に悟られる前にいち早くつかみ、敵が考えつかない方法で、攻めた。誰もが思いつくような考えでは、なしえないでしょう。正攻法では、負ける。マニュアルや、常識では、勝てないということです。勝つには思いもよらない「奇策」が必要だった。

豊臣秀吉と黒田官兵衛の備中高松城水攻め

戦国時代、失敗すれば、命はありませんでした。城主の場合、自分だけではない。家族や家臣たちの命を背負っていました。だから、戦略は命だった。

戦国武将たちの戦略を見ていると、感心しきりです。ご存知、豊臣秀吉と黒田官兵衛の戦略は、中でも大胆でした。備中高松城の水攻めをご存知でしょうか。

備中高松城は、池や沼、田んぼに囲まれ、進軍しようにも足をとられる湿地帯のため、攻めにくい要害の城として有名でした。秀吉の軍勢はその頃、3万。対して、敵は1万に満たなかったと言います。その兵力をもってして攻めることもできたでしょう。ただ、もし、そうすれば、多くの兵力を犠牲にしなくてはならない。

そこで、秀吉は部下からのある奇策を採用します。それが、戦国史上、例のない水攻めでした。備中高松城は攻めにくい要害でしたが、海抜は低かった。秀吉は破格の報酬で農民たちの労働力を活用し、城の近くに流れる川をせき止め、堤防を作り、川の水をどんどん城の方へ引き込んでいきました。折しも梅雨の季節。備中高松城は、水面に浮かぶ孤立無援の城となったのです。

食糧調達も出来ない、援軍を呼ぼうにも近づけない、備中高松城が落ちるのは時間の問題でした。秀吉はいっさいの兵力を失うことなく、いわば、戦わずして勝ったのです。

戦略と戦術

これが、戦略思考のすごさです。戦略次第で、勝敗が決まる。それに付き従う、命が救われる。備中高松城の水攻めの際も、失った命は備中高松城城主だけでした。私だったら、どうやって兵を進めるかばかりに気を取られていたでしょう。しかしそれは、戦略ではない。戦術から考えている時点で間違っています。

戦略と戦術は、似て非なるものです。戦略は、今ある資源をもってして、何をやるかを決めること。戦術は、どうやってやるかを決めること。備中高松城の話でいえば、水攻め、というのが戦略。川をせき止め、堤防を築くというのが戦術です。戦略が「what」なら、戦術は「How」。

戦略思考は、戦術からスタートしません。ゴールから物事を組み立てる、ということは、目的がまず、いちばん最初にあります。そこから逆算していく。目的⇒戦略⇒戦術。その順番です。偉そうに解説していますが、実は自分に言い聞かせているのです。自分自身が、出来ていないから。

目の前の事象にとらわれ過ぎていては、戦略思考はできません。

徳川家康の戦略的接待

織田信長の多年の宿敵といえば、武田信玄。信長が武田家を滅ぼしたとき、信玄はこの世を去っていましたが、上方へ凱旋する信長の心は晴れやかでした。

このとき信長47才。それは本能寺で没するわずか1か月半ほど前の話でした。信長は意外にも、富士を見たことがなかったそうです。武田家の領地であった甲府に入った時、側近に聞きました。

「富士というのは、まこと、美しいか」

いかにも美しゅうございます、と答えると、

「絵や歌にあるように美しいか」

と何度も聞いたという。

それを聞いた徳川家康は、ぜひ駿河を通って凱旋するように信長に勧めました。駿河だけでなく上方に至る遠州、三河は家康の領地。道中の接待は家康がしなければいけません。

その、接待がすさまじい。

1日で橋をかけ、道を広げ、人垣で警護する

甲府から南下するときには川を渡らなければなりませんでした。通常であれば、馬にひかせて通ります。家康は、そこに1日で橋を架けました。

それだけではありません。駿河に入るまでの道はところどころあぜ道のように狭かったそうです。その道を広げ、落ちた武田家の武士に襲われぬよう、沿道に人垣を作り警護させました。さらには、泊まるところも、信長好みに御殿風に改造したといいます。

家康は超ケチだった

この接待の為に家康は一国の財政をかたむけようとしていると人々は噂しました。実は徳川家康は超がつくケチで知られています。

晩年、庭先で手を洗い、懐から紙を取り出して手をぬぐったときのこと。そのうちの1枚が風に飛ばされました。家康はあわてふためいて、繁みのなかまで追って、やっと拾って懐に収めた。その時すでに天下を取った人物にしてはあまりにケチ臭いと、若い者が笑ったのを聞いて、家康はこう言ったそうです。

「わしはこれで天下をとったのだ」

その家康が、金に糸目をつけなかったのが信長の接待でした。

放心する信長

信長が凱旋する道々、ひとつも不自由なことはなかったといいます。家来の宿所はもちろん、朝夕の食事、休憩所の用意から、トイレも幾棟も作ったそうです。

4月。信長が富士の見える通りへ来た時、雲はなく、山頂には雪が積もり、それは美しかったといいます。信長はしばし放心し、たたずんでいたとか。

その後、大井川を渡った時、信長はいかに家康が自分を尊敬しているか身をもって知りました。川幅が広く、流れの早い大井川にさすがの家康も短期間で橋をかけるわけにいきません。そこで家康はどうしたか?

川の流れを緩める為に、上流で人垣を作り、信長を御輿に乗せ、家来衆は人夫の肩に乗せてわたらせたのです。

「おお、ゆゆしや。三河衆の馳走を受けるわ。」

普段、愛想など言わない信長も人夫にさえ会釈して通ったという。

徳川家康のマーケティング能力

徳川家康という人は「自分には才能がない」と思っていました。絵画も茶席も詩歌も能などの芸術は分からず、戦においてもクリエイティブな戦略を用いたことはなかったといいます。

何がすごかったか?真似ること。その能力がずば抜けていたといわれています。優れた戦略、人、情報を取り込むのがうまく、人の失敗から学ぶことが出来た。信長を感動させた接待を成功させたのもその能力があったからです。信長をよく知る側近の一人を顧問に迎え、どうすれば信長が満足するか調べたのでした。

現代でも、マーケティングをするときに、相手のことをここまで調べるでしょうか?3C分析ひとつとっても、多くの企業は詰めが甘いと思います。たとえば、競合リサーチ。勝つ会社は、競合を100でも200でも調べます。確信がつかめなければ、自社のスタッフを競合にもぐりこませて、どんな売り方をしているのか、断り方をしているのか、いくらで顧客を獲得し、利益率はどのくらいか。当たり前に調べるといいます。

それを実行するのに、個々の性格など入る余地もありません。家康もしかり。この家康から学べることは、非常に大きいと思います。なぜ、当時不利と言われた関ヶ原で圧倒的勝利を収められたのか。家康という人を知ると分かる気がします。

家康という人

徳川家康、という人ほど、国家安泰にした人は世界にも類がないそうです。

江戸幕府を開いて265年。国内で小競り合いはありながらも、戦国時代のような天下分け目の決戦などは皆無でした。こんな国は、世界でも稀だそうです。

一般に、家康という人は地味です。織田信長や豊臣秀吉のような派手さはない。

野球のイチロー選手が昔、ファインプレーは褒められることじゃないと言っているのを聞いたことがあります。ファインプレーに見えるのは守備位置がまずいからで、当たり前のように、飛んできたボールを楽に取れる位置にいるのがプロであると。

家康は、狸親父と呼ばれようが何だろうが、世の中を戦争のない平和な状態にするためなら、労をいとわなかったようです。豊臣方との最後の戦、大坂夏の陣にいたる経緯は、卑怯そのものなんですが、よくよく調べてみると、必ずしもそうでないことがわかります。

徳川家康の人材マネージメント能力

徳川家康という人は、ずば抜けた能力はなかったのに天下を取れた。

らしい・・・。

そんなわけない、と思う一方、ではなぜ天下をとれたのか、興味が湧きました。

少なくとも265年という、長期政権を築いたわけです。

その仕組みの礎は、家康がほとんど作ったというから、只者ではないと思うのですが・・・

100年レストラン事業を築く身としては非常に気になります。

家康の理想の人材像

こんな逸話が残ってます。「素手で刃物を獲る馬鹿」という話。あるとき、家康の居城、浜松城で気の狂った者が無差別に太刀を振り回し暴れ始めた。人を見ると傷つけ、城内は大騒ぎ。

そこへ太刀をかわしながらスルスルと懐に入り、素手でその狂った者を押さえつけた武人がひとり。周囲は手をたたいてその者を讃えて、当然、家康も褒美を出すものと皆が思ったところ、家康は何といったか?

「そのたぐいの者、当家にとっては無用である」

ヒーローはいらない

家康によれば、刃物に対して素手で立ち向かうような人に大事は任せられないという。

刃物には刃物、もしくはしかるべき道具を用意するとか、大勢で取り囲むとか、工夫をこらすべきで、しかるのちに大事に至ることなく捕らえるのが徳川家が求める侍だというんですね。素手で捕えようとする魂胆は自分への称賛欲しさにやる馬鹿がやることで、自分が目立つことしか考えていない。

そういう者に軍勢をあずけたらどうなるか?自らの褒章のために抜け駆けし、身勝手に戦をして、ついには全軍の崩壊を招く要因を作るかもしれない。

ヒーローはいらない、というのが家康の考えだったようです。

具体的な指示は与えない

本多平八郎忠勝は、家康について、こう語っています。

「わがあるじは、ハキとしたことは申さざる人」

家康の指示の与え方はとてもおおざっぱで、あとは当人や裁量に任せることが多かった。だから部下は、具体的にどうするのか考えざるをえません。現代で推奨されている指示の与え方とは真逆です。

いまは具体的に指示を与えないと、人は動かない。いや、順序だって説明しないと、動けなくなったのか。

2つの学び方

新人を教える時、その人が伸びるかどうかは初日でだいたいわかります。教えられたことを教えられたとおりにやるか、それとも自ら工夫しようとするか。伸びる人はたいがい後者です。

家康が求める人材もおそらく後者であったでしょう。経営者が何から何まで考え、指示を出していたら、組織が成長するスピードは鈍化します。

真田の戦略

ところで、戦国武将で誰が好きですか?

経営やマーケティングを学んでいる人は戦国時代に詳しい人が多くて、そんな雑談をよくします。その手の質問には、都度、私の答えは変わっていたのですが、私は、冒頭でも述べたように、黒田官兵衛、真田昌幸、徳川家康。日本人的な感傷を交えると、真田昌幸の子、真田信繁(幸村)も好きですね。

理由は、知略にすぐれながら、縁と恩と感謝を大事にしているから。真田昌幸は、『表裏比興(ひきょう)の者』と秀吉に評されるほど、主をころころと替えてきました。でも、この評は本質を言い当てていない。真田昌幸は、裏切りが常であった乱世において、その子、信繁(幸村)同様、最後まで義を貫いた武将です。なぜなら、昌幸が主を変えたのは、領地を守り、真田を存続させるため。ただ、それだけでした。

昌幸は、元々、武田信玄に仕え、信玄が没すると、その子、勝頼に仕えます。武田滅亡後、あれほどころころと主君を変えた昌幸でも、武田の元にあっては、どんなに苦境に立たされようが、裏切りはしませんでした。昌幸は、武田に背くことは一度たりとてなかったのです。主を変えようが、常に守ろうとしていたのは武田の領地。そのためなら何でもしただけのこと。私は昌幸の生き方に、非常にまっすぐな芯の通った、義を見ます。

信繁(幸村)もそうです。彼は、豊臣秀吉の世話役として仕えました。秀吉には、よくしてもらったのでしょう。関ヶ原の合戦後、和歌山の山奥へ流罪となって14年後、彼は迷うことなく豊臣方につきます。真田昌幸、信繁の戦略の中心には、必ず、義がありました。

死にざまに現れる美学

ちょっと戦略とは離れますが、真田幸村について述べたら、死にざまに触れないわけにいきませんね。大河ドラマ『真田丸』で、遠藤憲一さんが演じる上杉景勝が、死に様を見れば、どんな生き方をしてきたか分かる、というようなことを言っていました。はっきりとは覚えていないのですが、そんなニュアンスだったと思います。

真田幸村は、あと一歩というところまで、徳川家康を追い込み、果たせなかった。最後は、家康の首ただひとつを目標として、駆け抜けていきました。無謀といえばそうかもしれない。でも、その裏では緻密に計算していて、いくつかの計画倒れがあり、家康の首には一歩、届かなかったというのが事実だと思います。有名な、

「日の本一のつわもの」

とは、そんな真田幸村に贈られた言葉。戦国時代は、どんな風に死ねるか、ということに哲学があったようです。武士にとって美しい死は、桜のように潔く散ることでしょう。

ふと、思いました。逆説的ですが、理想の死に方を追求すると、生き方が見えてくるのではないか?

理想の死に様

理想の生き方を考えると、やや悩むところがありますが、理想の死に方ははっきりしています。果たすべき使命を果たし、愛する人と語り合いながらこころ静かに生の幕を閉じたい。眠りにつくまで、とりとめのない会話をして一日を終えるように。そんなイメージをもったら、不思議ですね。一日一日が大事に思えてきた。かならず使命を果たすぞ!と、生に対する責任を感じました。

このところ、そんなことを考えることが多い。

何度も問うていることですが、レストランをするとすれば、なぜ、レストランをするのか?なぜ、100年持続するレストランを創りたいのか?一生忘れられないほどの美味しい記憶を創って差し上げたいと、なぜ、思うのか?

それらに対する答えを、常に、持っておかなくてはいけないと思います。ハッキリと、誰にでも分かる形で。戦国時代も今も、人の命に変わりはありません、同じ人間です。理想の死に様に向けて、一生懸命、生きていきます。

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